妄創家族

民間では・・・

公的なお金の使い方について、

「民間ではありえない」

といって物申す人たちがいます。

無駄遣いに対して厳しい目を向けるのは

確かに大事だと思います。しかし、

この民間ではありえない、というのが

曲者です。そもそも公的なお金はなぜ

使わなければならないようになるのか。

それは民間がやれないこと、できても

一文の得にもならないことが世の中には

あるからです。民間の視点で見ていいのは

お金の効率的な使い方であって、お金を

使う目的まで民間の視点で見てはいけない

と思います。

自己防衛と権利

女性が乱暴される事件が起きると決まって

「そんな格好をして歩いているからだ」

と男性。

「女性には好きな服装をする権利がある」

と女性。

どちらも間違ったことを言っていませんが、

それぞれ異なる領域の問題について

言っています。

男性は自己防衛の観点から、危ない目に合う

可能性を排除しなさいと言っているのだけれど、

女性にしてみればそういう物言いは女性の権利

を侵害するということのようです。なるほど、女性の

言い分は、女を襲うのは男しかいないのだから、

男が自制するべきだ、と仰っているわけです。

それによって自分たちの権利が侵害されるいわれは

無いと。一見筋は通っているように見えますが、それは

違うと思います。男だって街で変なのに絡まれないように

服装を整えることだってザラにあります。あくまでも自分の

身を守るためなのです。この場合、”たまたま”脅威が

男という生物だっただけの話で、ハイキングに行って

足に豆ができた、という女性に

「そんな歩きにくい靴を履いてくるからだ」

と行っているのと次元は同じです。まさか、この場合でも

「女性には好きな靴を履く権利がある」

とか言いませんよね、多分。自分にふりかかる

脅威に対しては自分で対処するのが普通です。

男の側が手を出さなければ良い、というのは最もな

ご意見だとは思うのですが、残念ながら男も脳ミソ

共有しているわけではないのです。どこかやらかしちゃう

かもしれない男の行動にまでイチイチ責任持てません。

身を案じての言葉を権利侵害としか取れないのって、

普段からどれだけ権利が侵害されていると思って

いるんですか。当世ほど女性の権利が拡大して

(時として男性の権利さえも蹂躙するほどに)

いる時代は無いですよ。

天才と・・・

アインシュタインは彼を天才と賞賛する人達に言った。

「私は天才などではなく、ただ一つのことに、人より多くの時間をかけただけです」

多分、これは謙遜でも何でもなく、彼の本心からの言葉だったのだと思う。

彼がその賞賛を得るに至るまでには、その人生のほぼ全てを費やしたのだから。

しかし、彼と同じくらいの時間と労力を費やした人は居なかったのだろうか?

多分、居たのだと思う。しかし、賞賛を最初に得たのはアインシュタインだった。

何がアインシュタインと彼以外の研究者を分けたのだろう。

エジソンは言った。

99%の努力と1%のインスピレーション。

たとえどんなに努力をしても、最後の1%が足りないだけで出ない結果もあるということ。

エジソンも、アインシュタインも、その1%を得ることができた人達なんだろう。

ではその1%はどこからきたのだろう。

多分、天から。

天からきた最後の1%を得た人間、それを天才と昔の人は呼んだ様な気がする。

そしてその最後の1%は99%の努力をした者にのみ、得る資格が与えられる。

得た者と得られなかった者。

運命だったのだろうか。 

政治の本分

政治とは、正しいことをすることではない。

世の中は無数の異なる枠組みが複雑に絡み合ってできている。

それぞれの枠組みはそれぞれのあり方でもって、「正しいかたち」

を保有している。各枠組みは「正しいかたち」を希求し、それを善と

しているが、時として枠組み同士の善がぶつかり合うことがある。

経済、社会保障、国防、治安など、無数の枠組みの善は同時には成立しない。

それぞれの枠組みはそれぞれのあり方において正しいものとして

存在している。そうであるからこそ、誰かが判断しなければいけない。

どれが一番正しいかを決めるのではなく(そもそもそんなことは決められない)、

どの正しさを現時点で優遇すれば国益にかなうか、それを決める。

だから、政治家はあらゆる時点において、常に正しくない状態におかれる。

政治とは本来、そういう性質のものだと思う。

援助

ゾマホン氏曰く、今ベナンに必要なのは

魚ではなく、魚の取り方を教えてくれることらしい。

なるほど、援助とは「何か」をあげることではなく、

「何か」の存在を知らない人達にその存在知らしめ、

「何か」の扱い方、得る方法を伝えること。

かたちあるものを与えることは容易い。でも、

すぐになくなってしまう。でも、大多数の援助者達には

その方が好都合なのだろう。無くなり続けるからこそ、

援助者達は自らの善に浸り続けることができる。

そのためには、被援助者達が自立してしまっては困るのだ。

与え続けることで、自立心を失わせる。

これって間接的に相手に服従を強いている気がする。

外国援助のみならず、世の中の援助一般ってそうなってやしないか。

まとふ

スタイル:着る人の生き方、精神性を際立たせるもの

ファッション:着る人を飾り立て華やかに見せるもの

アート:それ自身が成り立つために着る人を必要とするもの

円環

巡るいのちの中

君の心は目を覚ました

なんのために

だれのために

ただ呼び合うために

ただそこに在るために

水面に落とされた一滴のしずくのように

世界はそこから始まる

声なき声とともに在らんいのちを搾り出せ

そしていのちは繰り返す環の中へ

ジャパンカルチャー

日本の文化の特性とはなんだろうか。

以前からずっと考え続けていたが、ようやく

答えのひとつが出た気がする。

そこには「反逆」「非権威的」「自育」というキーワードが見て取れる。

西洋の文化は貴族階級によって作られたという。

革命によって貴族が支配階級から追放されて以後、

文化の担い手は大衆に取って代わられたというが、

結局のところそれら文化を庇護し、育てたのは

文化の担い手としての矜持を持った元支配階級・貴族達

ではなかったのか。

だが日本はどうか。貴族、日本で言えば公家に当たるのだろうが、

彼らは武士の台頭以来、その存在こそ消滅しなかったものの、

今日の都に押し込められ、歴史の表舞台からはほぼ姿を消して

しまった。公家に代わって支配階級に躍り出た武士達は公家に代わり

数々の文化を生み出した。しかし、それは公家達によって権威付けられた

文化への忌避、かつて自分達の主だった者達の権威を否定するための

ものであったのだと思う。これはアニメや漫画の文化の成長の背景が垣間見える。

自分達を否定するものたちへの反逆の精神こそが彼らの文化を生み出すことへの

執着を生み出したのだろう。文化を生み出す力を得た武士は自ら権威になろうとしたが、

それはいくつ時代を重ねても叶わなかった。勝ち得た権威は、生まれながらの権威には

決して勝てない、それが全ての答えだったのだろう。そもそも日本は天然自然のもの、

”自ずからそこにあるもの”への畏敬の念が強い国民性である。それであるが故に、

自らが存在する以前からずっと存在していた権力を消し去ってしまうことへの恐れにつながった

のだろう。現に、武士の最高権力者さえも都の権威付けなしには成立しなかったのがいい証拠だ。

武士の生み出した文化は決して権威になることはなかったが、公家達の作り出した華やかさとは

別次元の”様式美”として大成していくことになる。

時代は流れ、江戸の太平の世の中になると文化の担い手は大衆へと移っていく。

支配階級である武士は自らの生み出した様式美の世界に閉じこもる一方、新しい

文化を生み出す力を失って言ったのではないかと思う。

大衆が自らの手で、公家や武士達の生み出した文化を吸収し、自分たち好みのもの

へと昇華して言ったのは、西洋が革命により文化を生み出す力を大衆が奪い取った

構図とは対照的である。

日本において文化を生み出す力は奪い取ったものではなく、自らはぐくみ、育てたものであり、

そこには一切の権威が存在しない。日本人が自国の文化に対して低い評価を与えるのは

決して自虐精神からくるものではない。日本の文化が育つ上で、権威が入り込む余地が徐々に

失われていっただけなのだ。

今、世界中から日本の文化が注目されているようだが、時代の流れから見れば

当たり前のような気もする。世界中の事物が大衆化していくことになれば貴族の権威

によって育てられた文化よりも、大衆か自ら生み出し、一切の権威を必要としない文化が

好まれるのは自明の理である。

ヨーロッパとそれに連なる文化圏では貴族が文化を育てた。

日本では、文化が”勝手に育った”。

世界がようやく、日本に追いついた。

限界

それはあなたの能力の限界ではない

あなたのこころの限界だ

こころは水のようなものだ。

いっぱいになったのなら、器を

とりかえればいい。

肯定

すべてを肯定する?

聖人君子じゃあるまいしそんなことできるか。

肯定したいのは自分自身なんだろう?